大杉漣さんが亡くなった。本当にびっくりした。 私と、役者時代の仲間たちは、転形劇場に所属していた頃の大杉さんに何度かお会いしている。公演の打上げに転形劇場の演出家、太田省吾さんと来てくださったりした。もちろん人見知りの私は話をしなくてすむように、なるたけ遠くに離れていたものだが。 当時大杉さんはまだ20代だったのだと、享年から逆算して驚いた。あの頃すでに私にとっては大スターだった。だからここ数日、TVが大杉さんのことを「長い下積み生活」だの「劇団に入ったものの開花したのは40代」などと言っているのを聞くと、なんだかとっても違和感がある。はっきり言えば、「はああ? 何言ってんの、あんた? 劇団時代を何だと思ってんの?」なのである。冗談ではない。20代でスターだったのだから、私などから見れば下積みなどなかったに等しい、演劇の神様に選ばれた役者さんである。 転形劇場がまたすごかった。日本国内だけではなく外国でも高い評価を受けていた。私は『小町風伝』と『水の駅』を観ており、所属していた劇団で『老花夜想』と『喜劇役者』を上演した。つまり私は、転形劇場がものすごく好きだったのだ。私ごときでは追いつかないレベルの高さだったが、とにかく好きだった。大杉さんはそんな劇団の役者さんだったのだ。(他にも品川徹さんや瀬川哲也さんが所属していた) 上京して間もない頃、小田急線の車内でばったり大杉さんにお会いしたことがある。読んでいた本から目を上げると、向かいに座っていた大杉さんと目が合ったのだ。軽く会釈してくださって、覚えていてくれたんだと天にも昇る心地だった。しかしこのときも私ったら、会釈を返したあとずっと本を読むふりをしていた。本当に失礼千万な私である。 大杉さんが小田急に乗っていたのは、梅ヶ丘に住んでいたからである。転形劇場に入団した知人の演出家夫妻んちに遊びに行ったら、「漣さん夫婦が上に住んでいる」と言う。そこは古い木造の二階建アパートメントで、ものすごく趣のある古い建物だった。間取りは忘れたけれど、広い畳の部屋と黒光りする板敷のスペースがあった。「いいなあ、ここ」と思ったのを覚えている。当然、上のお部屋も同じだったはずだ。 ああ、昔のことを思い出してしまう。つらかった稽古や、当時観たたくさんの芝居のことやなんかも。稽古場の匂いを。 縁とも言えない小さな縁を思い出す。 誰かが死ぬとはそういうことなのねと思う。